死への興味と狂気が心を安定させる

心がもやもやもやもやと、いつまでも気が晴れない日がある。
脳のバックグラウンドで何か見えないタスクがずっと動いていて、メモリ容量を掠め取っている。

そんなときは些細なことが気になる。
自分の中の未解決の不満が顔を出す。

そうして行くあてのない思考に沈んでいく。

こういう時に運動すると気が晴れたりするのだが生憎気力も時間も取れずに悶々と夕飯を作り始める。

何かを「しなければならない」という思考は精神を縛る。
面白いはずのことも面白くなくなる。
恐ろしい毒であるからしなければならないことはさっさと済ますに限る。

…しかしタイミングを逃してばかりで、結局その毒に犯されてしまう。

ふと思った。
なぜこうも日々活動することであったり、食事を作って食べたりすることが全て億劫に感じてしまうのか。

もしや私は「生きなければならない」と考えているのではないか。

妙にストンと心に入ってしまった。
この思考は危険なのではと感じながらも考えを進める。

実際、生きることは義務なのか?

答えはNO。

伴侶が悲しむとか、親が泣くとか、周囲の人間がとか、生物の本能がどうだとか、社会がどうとか、自殺は罪だとか…
そういう価値観は生命の問題の前には絶対的なものではない。

生きることは「しなければならない」ことではない。
つまり生きてもいいし死んでもいい。

死んでもいいのだ。

何かが少しだけ軽くなった。

自殺する人はなぜ自殺するのか。
それは「死」への興味のためなのではと思った。
普通の生活を送る人たちが自分が自殺することについて考えることは少ない。
だって死そのものに興味がないから。
誰だって興味ない事をわざわざ試したりしようなんて思わない。

だが辛い状況に置かれた人間は意識する。
生きていたくない人はつまり死ぬ事を考える。
生きていなければならないのに疲れ、無になることに興味を持つとも言えるのでは。

無気力の果てに自殺があるとしたら「興味を持つ」のは無気力とは反対の反応な気がする。
興味は生きている人しか持ち得ない。
だから死に向かうことを「楽になる」と言うのかもしれない。

ここまで来て自らの思春期を思い出した。
いじめられていて親も理解してくれない。よくある話。
逃げ場のない状況に自殺について考えたことは、なくもない。

思春期の自分は「死」が意識の中にあった。
そんなときに強く興味を惹かれて大好きになった音楽がある。
谷山浩子の曲だ。

可愛らしい声で歌われる歌詞はファンタジックで不思議で不気味で狂気を孕み、時に滅びを歌う。
とても暖かい歌もあるのだが、寂しさや悲しさの行く末にある滅びの曲が大好きだった。

ハマりにハマった谷山浩子の曲だが、自分が大人になるにつれて隠すようになった。
死の意識から遠ざかったからだろうか。
彼女の曲だけでなく無難でない類の好みは隠すようになった。
そいういえば最近は聴くのもやめてしまった。

料理をしながら曲を思い出しながら、口ずさんでみた。

ああ、今でも夢中になれる。

歌いに歌っているうちに夕飯が出来上がった。
気持ちはすっかり落ち着いたし、些細なこともどうでも良くなっていた。

自分で死ぬ事について考えるのは自分の中で禁忌だった。
だがいざ死について考え狂気と触れ合ったら、不足を補えたかのように心が安定した。

他人から隠しているうちに自分からも遠ざけてしまった大好きなものも発見できたし、またあの曲を聴いたり歌ったりしながら暮らそうと思った。